#2. 匿名でなければならない

見えるのは感性だけがいい

 活動紹介(リンク)でも述べたように、実際に会って話し合うことはしたくありません。どれだけの人が思索会に関心を抱いてくれるかは予想できませんが、二人組×Nグループの個別形式あるいは一同揃ってのラウンジ形式か、いずれにせよSNS上のメッセージによって交信します。Discordなど。

 

 オンラインにこだわるのは、個人のあらゆる属性を伏せたまま、相手がどういった存在であるか意識せずに思索だけを評価できるほうが純粋であると思うからです。

 人と接するにあたって相手の年齢・性別・学部・経歴・容姿といった属性は色眼鏡となり、あいにく悪い印象ばかりが際立って映るものです。たとえば思索会ではビデオ・音声通話も厭われるところですが、これは、相手の「声」によるたったそれだけの違和感や妙な感触のせいで、本来的には心通わせるはずだった人たちが近寄りきれないといった悲劇を回避するためです。言葉付きだけならまだしも声質ですら、あまりに強すぎる影響を私たちの心証に及ぼしてしまうのです。

 「くだらないノイズによって最も大切な本質(その人の思索が面白いか、自分と同じことを考えている人か)が乱されることのないように」、このような不安からメッセージ上での会話が最善であると考えます。

 

告解室的な

 これも活動紹介に挙げたとおり、思索会の方向性はなにせ叙情的ですから、そう軽々と、大学から駅までの道すがらに喋るような雰囲気であってほしくないわけです。かといって、呆れるくらい根暗の友人が突然電話を寄越していかにも「私、死にたいです」といった様子で迫ってきても、それはそれで本当に死んでほしいくらい厄介なわけです。

 やはりそれなりの信頼を置く友人との会話の中で、しかもここぞというときにだけ語るくらい、探り合うような慎重な手続きを踏むべき話題なのです。

 その点、思索会には特定のテーマに興味をそそられる人だけが話し合いを求めて訪ねてくる(ことになっている)ので、適切な相手と適切な空間が既にセットアップされていると言えます。大切な秘めたる価値観をどうでもいい人に明かす危険(私はこれがどうしても許せない)もなく、時機を見誤って勝手に独り黄昏れてしまって気まずくなる恐れもありません。あなたの思索は、ただ届いてほしい人にだけ届きます。

 

都合のいいフィクション

 相手の素性が割れないのは、かえって好都合でもあります。

 近頃の夜目遠目笠の内マスクの下であったり、鉛筆デッサンで輪郭線を重ねてなぞるように描くと何となく上手く見えたり、中高生の自殺のニュースに根拠もなく美しいストーリーを読み取ったり、何かにつけて私たちは知れないものを美しく補完して捉えがちです。

 思索会で見聞きするアイデアが何であれ、それを語る人の正体は分かりません。いつもは友達と楽しそうに振舞っている人が湿度の高い話題に触れるかもしれないし、容姿が整っていて生きづらさとは無縁そうな人が厭世的であるかもしれない。実際に会う限りでは絶対に交わらないであろう別世界の人がいま話しかけてきているかもしれない。

 考え方以外にも、性格や容姿がどうこうであるとか、あなたと同じ趣味をもっているとか逆に正反対の人間だけど唯一通底するところがあるとか、自由な「理想の人」像を思い描いて相手とすることができます。通信の向かい側の人格に勝手に別の精神を空想するのです。

 おそらく、いや間違いなくこっちのほうが楽しい思索ができると思っています。話し相手はいつでも私の理想の人であってくれるわけですから。そして、煙草を吸うなり同じ音楽家を好んでいるなり、全てにおいて理想の条件を満たしているような人がいて、その人は自分と同じことに苦しんでいる――これはこの上なく大きな希望になります。それが虚構だと気付いているとしても、それはそれでイマジナリーフレンドと戯れるようで面白いのではないでしょうか。

 

 私は才色兼備で交友関係に恵まれ人生の勝ち組路線のど真ん中にあって幸せそうに見える一方で思いも寄らず人間の屑にしか分からないような苦しみを描いた歌や小説に縋って生きている人に向けて今話しかけています。