#4. 呼吸するように

 今までこのブログに書いてきたようなことを考えるのは、私にとっては娯楽、慰みのようなものです。頭に浮かんだ面白いアイデアを的確な言葉で表現できた瞬間、今まで考えなしに空費してきた寿命にも価値があったのだと、生きている意味をかろうじて燃料切れ寸前で回復できます。そんな自転車操業でこのセロトニンゲームを回しています。

天然の思索場

 先日スマホのアルバムを眺めていたところ、高校同期(Dとします。)のツイートから保存した画像に目をとめ、私が求めているのはDのような人なのだと再認識させられました。

Dのツイートより

    D、まずありえませんが、もしこのページを訪れることがあれば、勝手な無断掲載を許してください

    あと、ツイッター消しちゃってからしばらく経ちますが、再開する予定ないですか?待ってます。

 

 「所感」と銘打たれたメモには、SS七枚にわたって、テーマ問わず幾つかの考えが書き連ねられていました。「自分はこうやって生きている人間だから、他のみんなはこういう風に振舞って欲しい」「自分のこの性質が端を発したのはいつからで、どういう作用によるものだったのか」といった、いたってランダムな考察の数々です。

 正直なところ、なかなか文章が不親切というか言葉足らずで、私の理解力ではDの考えを仔細に汲み取ることはできませんが、それでも私とDが似通った方向を向いて生きているのは確信できますし、何より読んでいて楽しかったのは間違いありません。同意できるところがあって理解者を得た気分になったり、また他方では自分なら想像だにしない些事に囚われていることを知ったりして、「そんな考えをもつ人が存在する」という認識を持てました。普段の生活の味気無さに閉口してばかりでいる分、自分とちょうど同じ/まったく異なる人がどこかにいてくれると、まだこの世界も捨てたものではないかと希望が持てる気がします。

 

 Dの「所感」で思索会と似ているのは、ごく日常的な考察を主としているところです。高尚遠大にして格式張ったアカデミック・テーゼを立てるのではなく、日常の中で付き纏ってくる厄介モノを明らかにするとか、自分の理想や価値感の輪郭を確かめるとか、感性の向くままに(あるいは敢えて逆に向かうかもしれない)頭の中の深く暗い方をごりごり掘り進めていく。思索会はそういった営みを目指しています。

 

依存症専門病棟

 なので、「所感」のようなメモを書かずにはいられない人、募集中です。

 とりとめもない閃きに常日頃から鋭敏でいて、発掘した最高のアイデアを後生大事に温めてぐつぐつと煮やして喜んでいる人、そんなことを考えて止まれない人、メモ帳をつくっておのずと書き留めてしまうDのような人。

 ですが、このメモ癖、内省癖は、人に言われたり感化されてすることではないと思います。以前から気に入っている曲と誰かに勧められて聞く曲とでは、その人にとっての意味も価値も決定的に違ってしまうはずですから。「思索会おもしろそう」と気が逸って意図的に捻り出す考えは、どうしても本心の自然な位置からずれてしまって、しかもその差異を認めず「これは私の考えていることだ、これを考えているのは私だ」と思い込みがちです。これは小説や音楽鑑賞の場面でも言えると思っていて、私は“錯覚”と称しています。――私も完全に自然発生的に内省を始めたとは当然言い切れませんが。

 ただいずれにしても、やはりきっかけはそういう類の捏造ではなく、自発的で自然な誘因の方が思索には好ましい。

 突発的に思い浮んだそれを探ってみる程度では足りず、自分から日常的に求めていきながら過ごしている人。そうした行動が知らないうちに日課になっていた人。もしよければ思索会まで連絡を寄越してください。僭越ながら私がいます。

 

「譲歩」

 ここまで言って何ですが、私がこのブログを読んだなら、多少は興味を寄せつつも、核心の部分で訝しまずにはいられないことでしょう。少なくとも純粋には好意的に思っていないはずです。

 なぜなら気取っていて鼻につく匂いがするし、なんとなく胡散臭いからです。もし思索会のような活動があれば、私の目には「取るに足らない烏合の衆が“それっぽさ”を追い求める学生特有の気風に触発されておっぱじめた哲学おままごと」として映ります。

 思索会の活動はいかにも、青年期ダークに沈んで以降冷笑主義が高じて他人を馬鹿にし始めたものの結局群らがって仲良く内輪で盛り上がるだけの半端者が好んでしていそうなことなのです。どうせ自分よりも考えの及ばない有象無象の寄せ集めが程度の低い営みをよろしくやって満足しているのだと思わずにはいられません。私はそのように自覚しています。

 要するに「私の方が上、君たちは私より下」「おおかた期待外れ」と断定して切り捨てたがる特別意識のせいで、どうにも仲良くしようと思えないのです。馬鹿だなー。

 電車で同年代のグループが談笑するのを聞いて話の他愛無さに辟易したり、ライブ会場で両隣の観客らが楽曲トークをしているのを(ふん、俄かが……)と隔壁の塔から見下ろしたり、そういうのです(後者は割とありがちなイメージだと思っているのですが、意外と賛同が得られていません)。全く同じ内容でも友達と話せば楽しかったりするし、その観客とだってひとたび語らえば仲良くなれる可能性のほうが高いのに、馬鹿だなー。

 

 それで私が断っておきたいのは、思索会に同調する一方で手放しには是認できないまま怪訝そうにしているあなたに対し、「一見すると思索会は駄目に見えるかもしれないけど、私だってそういうのは嫌いだ。そうやって捻くれているところも含めて私はあなたと同じなんだ」ということです。

 自分で言うのも何ですが、私も捻くれ者の一人です。それなりの感動と尊敬と伴わない限り、同類の人間が書いたブログを読んだところで感心することは稀なんです。それでも「信頼を置ける人」が欲しくて、そのためには捻くれた性根を一時的に伸ばして素直にならなければならない。しかしそうして“マトモ”になってしまうと他の天邪鬼たちの正反対に位置することになり、友となるべき存在から隔絶されてしまう。

 あなたの対極にいる私はここで、必死に「私もそっち側にいたんだ」と訴えています。「どうかそこらへんの奴らと一緒くたにしないで欲しい」

 

 思索会は、一人でいるのが好きなような偏屈家が理解者を得るという矛盾を端から抱えています。

 

 この致命的欠陥を克服するべく、まずはこちらで思索会を設立しました。

 眉唾物っぽく見えてしまうことは分かり切ったうえで、嫌々ながら!

 あとはそちらが私の本意を呑み込んでくれれば、あとはきっと丸く収まるはずです。

 

 以上を踏まえて、思索会に来て欲しいのは、このブログを読んで思索活動に憧れをもってメロメロになってしまう人ではありません。思索の妙味をずっと前から知っていた人です。思索会ができる以前から思索会を求めていた人です。

 

△「何が面白いのかまるで分からない」

▲「なんだか雰囲気的に面白そう」

◯「そうそう、まさにこういうのを探してたんだ」

◎「へぇ、こんな人が他にもいたんだ。でもどうせファッション哲学だろうな……」

 

 

 要領を得ない文になってしまったので、改めて主旨をまとめます。

・“日常的な”考察を究めたい

・暇さえあれば気晴らしにくだらないことを思ってきた人に宛てる

・思索会は狼人間さんの棲み処としてつくった

 

またいつかDの「所感」のような誰かの思索を読んでワクワクしたいと切実に願います。

そして同好の士に私の考えを聞いて欲しいと思われてやみません。