#3. タガタメノキミ

 同じ中学にいた友達と私は、別々の高校に進んで以降、奇しくも示し合わすことなく似通った“雰囲気”を備えるようになりました。そのことに互いが何となく気づいてからというもの、どこに行くでもなく二人で散歩しながら、そういう雰囲気の話題について考えを交わしてきました。

 ここでいう雰囲気は、例えば、スポーツ観戦を趣味として部活に熱中する人だったり、何かしらの学問に心酔してひたすらに学術書を漁る学生だったり、あるいは逆に何にも身を投じることなくCDカセットデッキで同じ曲を聞いて過ごすばかりのフリーターだったり、そういう私生活における文化的指向の総体としての性質のことです。気立て、感性、価値観が近いです。

 とはいえ、友達と私がそれぞれ考えていることは、もう一方にとっては至ってどうでもいいことであったりします。最近になってようやく私の心に巣食い始めた悩みを、友達はずっと若く、けれども幼くない精神の頃に解決して今や気に留めていなかったり、友達にとっての革命的な思索や確信的な価値に私は惹かれず、熱を入れて説き続けるその勢いに生返事せざるを得なかったり。

 しかし雰囲気は一致しています。実際に目を向ける各個の対象と関心の大小こそ違えど、およそ同じアイデアの域(雰囲気)に属する私たちは、何が好きで何が嫌いか、何が面白く何がつまらないか、何が美しく何が醜いのかを考え、表現します。そうして真ん中にただ一つの明りを据えた同じテーブルの席に着いて、自分と全く異なる人格をつくってきた人の感性に触れ、通じるところがあれば首肯して喜び、異にするところがあればそれを自分の感性に混ぜ込んで面白い反応を期待します。

 そのようなサロン的空間がこのうえなく楽しいので、こうした友人が彼彼女らの他にもいればなお世界はマシになると思い、設立した次第です。そして、私に同意して思索会に集まってくれる人にとっては逆に私という存在が格好の話し相手であるはずです。

 そのようなかたちで全自動的にギブアンドテイクとなる、いわば価値観の波止場を目指します。

 

この記事に限らず「雰囲気」という言葉が多用されていますが、これが何を指すのか、私も上手く理解できていません。例の友達との会話では、「今私たちが話しているようなコト、『そういう雰囲気』の雑談をできる人が世界にあまりいない」のような文で、(主に私だけが)用いています。要するに、自分たちがその雰囲気に在るときにだけ、その場の居心地を「雰囲気」という言葉で代表させて、都合の良い使い方をしているということです。昨晩のテレビ番組とか期末試験とか時事ニュースとかそういう世俗的、現実的な(?)ことを指すものでないのは明らかなのですが、かといってこれだと断言できるほど手ごろな言葉が見つかっていません。このような中核的なアイデアに、端的でインパクトのある名前を与えてやりたいものです。そういうセンスをもっていて言葉を上手にあやつれる人になりたい。

良さげなワードが浮かんだ人はぜひとも知らせてください。

 

「運命の人」?

 ところで、私と同じことを同じように考える人、私の思索の全てに同意してくれる人、私と似ていれば似ている人ほど望ましいということではありませんが(自分自身との対話は面白いかもしれませんが、つまるところ単なる内省の異形態に過ぎないので)、それでも「自分に限りなく近い人」に出会ってみたいものです。ドッペルゲンガーと相見えたとき、それとの会話は果たして死ぬほど面白いのか死ぬほど退屈なのか? そもそも何を語るのか? どういった感触を覚えるのかが気になるので、その答えに近づきたいという微かな楽しみもあります。

 しかしながら、「自分に限りなく近い人」、例えば真の意味で“理解”ある彼氏くん彼女ちゃんが私に寄り添って無条件に「うんうん」と頷いてくれるよりも、雰囲気だけなんとなく似ている程度の人が、滅多に共感を示さずとも私の話を面白いと思ってくれて私が面白いと思う話をしてくれる方が、やはり格別に嬉しい。同じ雰囲気であってほしいとはいえ、あくまで私とは決定的に違う人格の誰かがいい。「私に隣にいてほしい」と思ってくれる誰かに隣にいてほしい。